限りなく透明に近い当事者研究

東京にある某国立大生の頭の整理。高校生の時から通院中。心身の健康、読書、その他勉強に関すること。

リストカットやOD(オーバードーズ)などの自傷行為の理由と、感情の言語化。

自傷行為をする」→「感情の言語化が苦手」あるいは「感情の言語化が得意」→「自傷行為はしない」なのだろうか?

 

私は数週間前、オーバードーズ(OD)をしてしまいました。自傷行為は1年くらいしないように耐えてきていたくらいなので、相当調子が悪かったのです。

その後の診察で、主治医(コナンの阿笠博士に似ているので以降阿笠と表記。)が会話の中で「あなたの病気に対する仮説が変わった」と言いました。

言語化が得意な人間がODをするのは未熟じゃないか」と言われたので、自傷行為の理由自傷行為と感情を言語化することの関係について考察しました。

 

 

 

 前回の診察の会話

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阿笠「レポートと試験だったらどっちがいい?」

私「試験のほうが点は取れるけどレポートの方が好き。」

阿笠「そうなんだ!でも『自由に書きなさい』って言われると困ったりしない?」(※私は「アスペルガー症候群」と前任の医師より診断されてるので曖昧な指示が苦手だと推察されたのだろう)

私「テーマ決めちゃえばその後は平気です。」

阿笠「もしかして文章書くの得意?」

私「まあ…。バイトでブログ書いてるので嫌いではないです。」

阿笠「へぇー、いいねえ。どんなこと書いてるの?」

私「勉強法とか。」

阿笠「なるほど。自分の気持ちとか考えとかを書くことはないの?」

私「あんまりないですけど…あ、でも読んだ本のまとめと感想をノートに書いてます。」

阿笠「えーーそうなんだ意外!」

(しばし沈黙して考える)

阿笠「僕はあなたのことを、気持ちを言葉にするのが苦手だから処理できなくてしんどくなった時に薬をたくさん飲むことが一種の対処法になってるんじゃないか…って仮説を立ててたんだけど、あなたがそんな風に高度に言語を使える人なら薬を飲みすぎるっていう手段はそれにしては未熟な手段だと思うんだよね。」

私「…はい」

阿笠「変なことを聞くけど、だとしたら、あなたはもしかして本を読んだり言葉を使ったりすることで本当はもう自分の苦しみの原因を理解していて、その上で目的を持って薬をたくさん飲んでるんじゃない?」

 

意味わからなくて絶句しました。「未熟」って言葉が刺さって辛い。

結局「なんか先生の言ってること違うなー」という感じがしたので否定しましたが、ずっと違和感がありました。違和感の理由を探ってみたいと思います。

 

私が自傷行為をする理由

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人によって自傷行為の理由は様々です。例えば、リストカットなら「切ると快感が得られる、落ち着く」「生きてる実感が得られる」「傷跡を見せて心配されたい」などなど。オーバードーズなら「楽になりたい、意識を飛ばしたい」などでしょうか。

ちなみに、リストカットしてる人に対して「かまちょだから心配されたくてやっている」と批判するひとがよくいます。2つ反論。

自傷行為者のなかで「心配されたい派」はそこまで多くないです。仕方なく、止むに止まれずやってる人が多数です。その人の本当の理由や背景にもっと目を向けてください。

②仮に「心配されたい派」だったとして。「心配されたいから」という理由で「腕を切る」という痛くて傷の残る大ごとをするわけです。この「心配されたい」という気持ちがどれほど切実で苦しいものなのでしょうか。想像して見てください。

私がアームカットをする理由

私はかつてアームカットをしていました。「絶対に人に見られたくない」「メンヘラって知られたら人生終わりだ」くらいの気持ちがあったので、半袖を着て隠れるくらいの腕の上の方を貝印のカミソリで切っていました。

私は「切るのが快感」「痛みなんて感じない」派ではありませんでした。むしろとっっても痛かったです。血を見ると確かにちょっとした満足感も感じましたが、「血を見ると生きている実感が得られる」派でもありませんでした。

でも、私は「痛いからこそ」やっていました。これはかなり変態な方、というか私以外にあまり聞いたことがありません。

心の病気にならないとこれはわからないと思いますが、とにかく苦しかったのです。歩いてても、横になってても、何か考えてても、ひたすらぼーっとしてても、とにかく頭と胸が圧迫されてかきまわされて苦しくてしんどくてわけもなく辛い。この状態がずっと続き家族も医者も助けることはできない。何をしたって変わらない。本当に地獄の苦しみです。

これを少しでも解放するのが私にとって腕を切ることでした。腕を切るとものすごく痛い。だから体の痛みに意識が向くのです。少しでもそっちの方に意識をそらして、苦しみを和らげようとするのが私にとってのアムカでした。

今では完全にアムカを断って2年ほどになります。もともとアムカを始めたことで着替えのある体育の授業に出れない・水着は着れない・短い袖のものは着れない・交際相手が出来た時にメンヘラだとバレてしまうなどの大きい弊害が出てきて、「やめたい」とはとても強く思っていました。しかし代替手段もなくズルズルとやっていた矢先…。

その日は学校で気分がどうしようもなく下がり、トイレでアムカしました。そしたら思いのほか深く切ってしまったのです。制服のブラウスに血がついてしまいパニックになりました。学校の先生にも言った事はなかったのですが、仕方なく保健室にかけこみ手当てを受けました。保健室の先生は特別な声かけをしてくれたわけでもなく普通に処置してくれたのですが、不思議とそれ以降腕を切りたい時に立ち止まれるようになったのです。今まで切っても誰にも言わずに処置せず放っておいていたのに、その時「傷けっこう深いね」「痛そう」という言葉とともに消毒され包帯を丁寧に巻いてくれたのが私にはとても大きな事だったのです。

私がOD(オーバードーズ)する理由

これも上記のアームカットをする理由とほとんど同じです。「地獄の苦しみ」からの助けを求めて、薬を飲んで「苦しむ意識の主体を止めよう、消そう」という試みです。「ラリって快感を得よう」派ではありません。アームカットをする時よりは、「あわよくば死んでしまえ」的な投げやりで自己破壊的で絶望的な気持ちの時にする気がします。

とはいえ、冒頭に書いたようにODも長らく断てていたのです。ODしても良いことなんかありません。中には自殺しようとしてODして死んでしまう人もいますが、今の薬は安全に出来てるらしく常人が飲める量じゃ死にません。結果、ODして次の日起きて余計にしんどくなるだけ。まず起き上がれない。起き上がってもまっすぐ歩けない。物にぶつかる。体のだるさが半端じゃないです。余計体もしんどくなって精神も疲れるだけです。だから「やりたくない」とは強く思っているのです。

感情が言葉にできないことが自傷行為の原因なのか

そもそも感情を言葉にできたら自傷行為しないのだろうか。

まず、「感情を言葉にできること」と「生まれた言葉を他人に伝えること」の間には大きな落差があるということを考えなくてはいけないと思う。私にとっては気持ちを人に伝えることは抵抗があるどころか、かなり恐怖で勇気を出さなければいけないことなのです。だから私がたとえ自傷の原因となる気持ちを言葉にできたとしてもそれを誰かに伝えられるかどうかは甚だ疑問です。また、私が人に気持ちを伝えない理由として、「伝えたから何になるの?」というのがあります。別に伝えてその気持ちが和らぐわけじゃない。むしろ逆に見当違いのことを言われて傷つくかもしれない。てわけで簡単には人に気持ちを伝えません。

「感情を言語化できるなら自傷行為をしないだろう」という仮説には「自傷行為には原因となる感情があってそれを他人に伝えれば原因が解消される」という前提が含まれているように思えるのでこのような話をしました。

しかし、私にとってはそもそも自傷の原因となるような気分は到底言葉にできるものではありません。それは私の言語力の高いor低いに関わらず、です。その時の気分はもう圧倒的で、色で表すなら黒。「悲しい」とか「疲れた」とかあらゆる言葉を超えて、圧倒的に苦しい気分です。

こんな気分、言葉にできるわけないのです。だから、「高度な言語力を持っているのにODするのは未熟な手段」と言われたのはかなり不本意で驚きました。

でも一方で、「実は自分の苦しみの原因をわかってしまっているのではないか」という指摘には刺さるものがありました。「きちんと向き合ってないんじゃないか」みたいに咎められてる気もしました。